No.6「お寺の掲示板」2021/5/31
【校長からの発信】
No.6「お寺の掲示板」
2021年5月31日 校長 森田 勉
5月26日(水)の夜、20時9分から見られると思っていた皆既月食でしたが、残念ながら南東の空は雲に覆われて見ることができませんでした。生徒のみなさんにも赤銅色に染まる何とも言えない不思議な満月を楽しんでもらいたかったのですが、相手が天気だから仕方がないですね。こういう時はあきらめも肝心だと自分に言い聞かせようとしました。
しかし、あきらめきれない私は、皆既月食がだめなら部分月食だけでも見たいなと思って、もう少し粘ってみました。すると、「念ずれば通ず」で、21時20分ぐらいに曇天の夜空にほのかに白い輝きが見えてきました。ぼんやりとはしていましたが、だんだんと欠けた月の輪郭が見え始めてきました。そしていわゆる“おぼろ月”状態でしたが、部分月食が見えてきたのです。天気が良いときにくらべて、地球の影が際立って、月が欠けている様子をしっかりと確認できました。そして、雲にまみれていてとても幻想的で、いい感じの月食を見られて満足でした。昔の人は、月にできた丸い影を見て地球が丸いことを感じ取ったのだろうなあなどと思いをはせながら、短時間でしたが楽しむことができました。
みなさんにも少しお裾分けをいたします。ベランダに持ち出していた天体望遠鏡越しに写真を撮ったので以下に載せたいと思います。1枚目(左側)は21時21分ごろ。2枚目(右側)は21時40分ごろのものです。
わずか20分ぐらいの違いですが、2枚目のほうは影が小さくなってきていることにお気づきでしょう。2枚目の写真を撮ったあとは、月はまた雲に隠れてしまいました。また再来年の11月まで気長に待ちたいと思います。
ところで今日の話題は、表題にある「お寺の掲示板」に書かれている言葉についてのものです。私は朝の通勤時、山手線を使っていますが、上野駅の手前の日暮里や鶯谷で降りて、少し歩いて学校まで行くようにしています。日暮里駅近くの天王寺の境内には、大仏が鎮座していますし、鐘撞き堂などもありなかなか落ち着ついたいい雰囲気のところです。その入り口にある掲示板に、まだ寒い時期でしたが、次のような内容が書いてありました。ちょっとうろ覚えですが「思いは見えないが、思いやりは見せられる。心も見えないが、心づかいは見せられる」とありました。なるほどと感心して、しばらく心の中でかみしめていました。今、話題になっている渋沢栄一も「心を穏やかにさせるには思いやりを持つことが大事である。一切の私心をはさまずに物事にあたり、人に接するならば、心は穏やかで余裕を持つことができるのだ」という言葉を残しています。「まごころ・思いやり」は栄一が生涯貫いた思想であるともいわれています。天王寺をあとにして谷中霊園を通り抜けながら、そんなことを思い巡らしながら学校に向かいました。
ところで、以下の話は、先週の5月24日(月)の職員朝礼でもお話しさせてもらった内容でもあります。ここのところ、少し暑くなってきましたので、日暮里よりは上野に近い鶯谷駅で降りて歩くことの方が増えてきました。駅を出て台東区立忍岡中学校の前を通ると、お寺が立ち並んでいます。駅に近い方から寒松院、そして林光院と、二つともに小さな間口ですがなかなか趣のある寺院です。そこの掲示板に次のような言葉が、まるで申し合わせていたかのように書かれていました。前者のものには「人は見えても自分は見えない」、後者には「自分さえよければで世の中は乱れる」とありました。それを見た私は、自分もそうならないように努めたいなと思いながら通勤しています。
そういえば、「自己中」という言葉は今や死語になりつつあります。あまりに「自己中心的」な人に対して批判するときに使う言葉でした。学校ほど「自己中」の人がなじまない世界はないと、私は思っています。他者への思いやりや心遣いが大切で、チームで仕事をすることが多いからです。自分勝手な判断で、勝手気ままに動いたのでは現代の学校教育は成り立ちません。今年掲げた教育目標は、生徒のみなさんにそうなってほしいと思って掲げましたが、実はそればかりではありません。私たち教職員も「仲間とともに、主体的に、学ぶ、考える、創造する、そして行動する」ことを今一度肝に銘じて、教育活動に当たっていきたいものです。そんなことを思い起こさせるお寺の掲示板でした。