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No.18 サッカーワールドカップ予選の思い出
2021/10/26

【校長からの発信】
No.18  サッカーワールドカップ予選の思い出


2021年10月26日 校長 森田 勉

 

 

 2022年にカタールで開かれるサッカーのワールドカップ本大会に向けて、現在アジア最終予選が進行中です。日本が所属するBグループには、日本のほか、オーストラリア、サウジアラビア、オマーン、中国、ベトナムの国々が入っています。このうちの上位2位までが来年の本大会への出場権を得ます。3位になるとプレーオフに回ることになっています。各国とも4試合を終えたところです。日本は2勝2敗で第4位につけています。マスコミは、「出場権獲得に黄色信号」と危機感をあおっているようにも思えます。あと6試合残されていますので、何が起きるかわからない、というのが最終予選です。ワクワクドキドキしながら、応援していきたいと思っています。

 ところで、日本代表チームがもし来年のワールドカップの出場権を獲得すると、7大会連続して出場することになります。1998年のフランス大会に初めて出場してから、本大会に出ないことはありませんでしたので、今の高校生たちは、もしかすると「日本がワールドカップに出るのは当たり前」と思っているかもしれません。しかし、サッカー歴50年以上の私(笑)からすると、それはとんでもない話なのです。私が高校生の頃は、ワールドカップ出場は夢のまた夢の話でした。オリンピックでさえ、1968年のメキシコ・オリンピック以降1996年のアトランタ・オリンピックまで28年間も出られませんでした(現在オリンピックも7大会連続出場中)。

 ワールドカップ予選ではアジアの国々にことごとく負け続けてきたのです。そんな中で、過去にあと少しで本大会に出場、というところまで行った思い出深い試合がふたつほどありました。今回は、この2試合の内容をご紹介しましょう。ひとつは、1986年メキシコ大会の予選である対韓国戦。もうひとつは1994年のアメリカ大会の予選である対イラク戦です。以下にそのときのことを載せておきます。

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10月26日(1985年) プロ集団の韓国に敗れる  

 今から36年前のちょうど今日この日に行われた試合。1986年ワールドカップ・メキシコ大会アジア東地区予選最終ラウンドの日本対韓国戦である。試合はホーム・アンド・アウェイで行われ、この日が日本で行われた第1戦であった。

 2次予選を順調に勝ち抜いてきた日本代表チームは、ディフェンダーの加藤主将を中心に良くまとまっており、大きな期待を抱かせるチームであった。私も、土曜日の午後3時キックオフということで、午前中の仕事を終え、職場の同僚と一緒に3人で国立競技場に見に行った。スタジアムは、当時としては珍しく超満員で、開始までの胸の高鳴りが忘れられない。この試合をテレビで実況した、NHKの山本アナウンサーが、「国立競技場の曇り空の向こうにメキシコの青い空が見えるような気がします。」という名言を残したことでも有名である。

 試合は、プロ集団の韓国に前半2点を先取された。私は、電光掲示板側のゴール裏で見ていた。そこまで届いてくるような強烈なシュートが日本ゴールのネットに突き刺さった光景が今でも目に浮かぶ。前半終了直前、ゴール前のフリーキックを木村が直接決めて1点差とした。このゴールは、伝説のフリーキックとして今でも語り継がれている。後半は総攻撃を仕掛けるが、韓国のゴールをついに割ることができなかった。試合終了後、曇天の空からポツリポツリと涙雨が降ってきた。

 結局、気落ちした日本チームは、11月3日のソウルで行われた第2戦も0-1で落とし、夢は破れた。

 このゲームの敗戦をきっかけに、日本サッカーのプロ化への動きに拍車がかかる。冷静に振り返れば、プロの韓国とは、実力に差があったことは否めなかったからである。日本サッカーが、ワールドカップ本大会に初出場を果たすまでに、このときからさらに12年の歳月を要した。

 

10月28日(1993年) ドーハの悲劇―日本ロスタイムに泣く

 この日を忘れることはできない。初のワールドカップ出場をかけての、ワールドカップ・アメリカ大会アジア地区最終予選の最終試合対イラク戦である。日本は、初戦のサウジアラビアに引き分け、第2戦のイランに痛い1敗。第3戦目から立ち直り、北朝鮮と韓国を見事に連破し、トップに踊り出た。最終戦に勝ちさえすれば、サウジアラビア、韓国をおさえて悲願のワールドカップ初出場というところまできた。遠くカタールのドーハで行われる試合を、サッカーファンのみならず、日本人の多くが大きな期待を持って見守った。

 試合は立ち上がりに日本がカズのシュートで先取点を奪う。後半に同点に追い付かれたものの、中山が勝ち越しのゴールで再び2-1とリードし、終盤を迎える。電光掲示板の時計は残り時間0をさしていた。残るはロスタイムのみ。日本人の誰もがタイムアップの笛を心待ちにしていた。イラクが最後の力を振り絞って攻めてくる。そしてコーナーキック。ショートコーナーからのセンタリングをイラク選手がヘディングシュート。無情にもボールはゴール左隅に吸い込まれてしまった。勝利の女神は微笑まなかった。この瞬間、ワールドカップ初出場の夢は消えてしまった。試合後のオフト監督の「負けた。これがサッカーだ」というコメントがむなしく響いた。選手も、サポーターも筆舌につくし難いほどの悲しみに襲われたゲームであった。「ドーハの悲劇」といわれるゆえんである。

 この試合はテレビ東京で日本時間の午後10時から放映されたが、何と平均視聴率が48.1%にも達した。本当に多くの日本人が画面を通じて声援を送ったことを示している。翌日の授業で、生徒たちが非常に落胆しており、いつもの覇気が感じられなかった。しかし、あまり怒る気にもなれず、むしろ私自身が頑張らないといけないと、自分を励ましながら授業を行ったことを良く覚えている。ワールドカップ初出場の歓喜は4年後に持ち越された。

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 こうした敗戦を何度も経験して、日本は強くなってきました。そのことを忘れてはいけないと思いながらも、それでも残り6試合、なんとか勝ってほしいと思っています。

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